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2017.04.30

ルーブリックにおける、「発見の文脈(学びの文脈)」と「正当化の文脈(説明の文脈)」

「発見の文脈」と「正当化の文脈」というのは科学哲学での話である。
これをそのまま「学びの文脈」と「説明の文脈」という、
教育の話に置き換えられると思っている。
詳しくは『学生を思考にいざなうレポート課題』のコラムで書いているのでみてほしい。
以下ではルーブリックとの関係で少し書いてみる。

ルーブリックはもともとは、教師が生徒のパフォーマンス課題に対して、
その質的な違いの根拠について説明したものである。
プロの視点でなぜその作品がそのレベルのものであるかについての記述を与えたものである。
これはまさしく、「正当化の文脈」あるいは「説明の文脈」であるといえる。

しかし、学生は実際にその正当化の文脈に沿って学ぶわけではない。

野球に関していうと、解説者が、プロ野球選手のプレーの良さについて解説をする。
「巧みなグローブさばき」であるとか「投手の癖を盗んで盗塁している」など、
その選手の良さの説明は様々な形で与えられる。

しかし野球を始めたばかりの少年に対して、そうした説明はどれほど役に立つだろうか。
初心者にとってはむしろ、「どのクラブに所属するか」や「一日何時間練習するか」とか、
あるいは「野手にするか投手を目指すか」といったことこそ重要な問題だろう。
熟達者と初心者とでは、重視されるべき点が異なっているというのは
非常に当たり前のことである。

しかしながらルーブリックに関してはその二つは混同されていないだろうか。

ルーブリックには少なくとも二つの側面がある。
先のような教師が質的な違いを説明する文脈と、
生徒が学びの指針とする「学びの文脈(あるいは発見の文脈)」とである。

学びの文脈にも様々なレベルがあるが、
基本的にはプロセスを明確化することが重要であると思う。
たとえば、レポートの場合「計画性」というのは重要で、
次のようなレベルが考えられるだろう。

計画性:「提出できなかった」「締め切りに遅れたが提出できた」
「締め切り当日に書き上げられた」「余裕をもって書き上げられた」

そして、「余裕を持って書き上げられた」の欄からはじめて「推敲」の欄が始まる。

推敲:「見直さなかった」「見直しはしたが修正はしなかった」「見直して修正できた」

こうしたプロセスはまさに学びの文脈であると言えるだろう。

もちろんプロセスがよくなれば、質が必ずよくなるわけではない。
しかし、強い相関関係があるのは間違いないだろう。
また、質に関するルーブリックも付け加えてもよい。
一つの観点で一気に物事の解決を目指す必要はない。

このように考えると「学生とともにルーブリックをつくったほうがよい」と
よく言われることの理由もはっきりするだろう。
正当化の文脈はしばし学びの文脈とかけ離れてしまいがちであるが、
学生とともにつくることで、二つの文脈を融合させる効果があるから、
というように説明すれば理解しやすいのではないだろうか。
あるいは、ともに作らないとしても、
教員がその二つの文脈の融合を意識してルーブリックを作るということも考えられるだろう。

ルーブリックには多様な側面(つまり目的や利用方法)があるため、
効果的に運用するためには、それらを切り分けながら考える必要があるのである。

2017.04.29

ルーブリックの仮説性について

ルーブリックはこれまでも作ってきたし、現在も作ろうとしているし、前から関心があったので色々と考えてきた。
今考えていることをちょっとまとめておこうと思う。

何年か前に松下先生の講演を聞きに行ったときに「メタルーブリックは改訂されることはあるのですか?」と講演後に質問にいった。
そのときの返答は「メタルーブリックが改訂されることはまずない」という返答だったと記憶している。
その返答自体は何もおかしなことはない。
しかし、そのときから少し違和感のようなものを感じていた。

ルーブリックに関しては、初等では以前から取り入れられていたようだが、大学でも現在は広く取り入れられるようになってきた。
とはいえ、活用している教員みんなが「うまくいっている」という状態ではないのは確かであろう。
ルーブリックには、個別のパフォーマンス課題を評価するレベルから、学生の長期の成長を評価するための長期的ルーブリックまで様々なレベルのものがある。
そうしたレベルについては脇において、現時点で取り入れられているルーブリックのほとんどについて、それらがよいルーブリックなのかよくないルーブリックなのか、はっきりしないと思われる。
つまり、現状の多くのルーブリックは「仮説的」なものであると言えるだろう。
(このことは仮説的ではない、絶対的にうまくいくルーブリックの存在を否定しない)

そうであるなら、そのルーブリックがよいルーブリックなのかよくないルーブリックなのか「テスト」されないといけないだろう。
科学理論の場合、単純化して説明すると、そのテストは、仮説から導き出される予測と世界が一致しているかどうかで仮説としての理論をテストする。
では、ルーブリックの場合はどうか。

ルーブリックを教員が総括的評価に用いる場合、矢印(?)は教員から学生の方に一方通行に伸びているだけのような気がする。
しかし、「学生の学び」や「評価」を通して、ルーブリックもテスト(評価)されないといけないだろう。
では、どのようなエビデンスによってルーブリックはテストされるべきだろうか。

ルーブリックをテストするエビデンスは、そのルーブリックを用いた評価活動を通してうまれるものによってテストされるのがコストがかからなくて便利だ。
別途学生や教員にルーブリックの使い勝手に関するアンケートをするとでルーブリックのよしあしについて評価することもできそうであるが、それはそもそも「テスト」ではないように思うので、テストであるからには、やはりその仮説から生み出されたもの(科学理論の場合であれば「予測」)によって評価されるべきなのであろう。

ここで一つの疑問がある。
ルーブリック自体のテストに用いることができるエビデンスは、ルーブリックで評価する場合には必ず生じているものなのだろうか。
生じているものの、利用している教員がテストしていないだけなのか、あるいは、ルーブリックの構造(観点の設定の仕方や記述の仕方)によって、生じる場合があったり、生じない場合があったりするのだろうか。

現時点ではなんとなく後者のような気がしているが、あまりはっきりとした根拠は提示できない。

今日はここまで。

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