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2017.11.09

おもいやりライトin長崎2017開催!

明日の11月10日(金)は「いい点灯の日」です。
そこで「おもいやりライトin長崎」を開催します!

交通事故が一番多いのは16時から18時とのこと。
そこで、ドライバーに早めのヘッドライト点灯を呼びかける
「おもいやりライト運動」を行ないます。
これは、パネルを通して、ドライバーにヘッドライトの点灯を呼びかけるものです。
この「点灯呼びかけアクション」でドライバーの方とこれまでにないコミュニケーションを楽しんでみましょう!

点灯呼びかけアクションの後は、ソーシャルアクションに関するトークイベントもあります。
ソーシャルアクションとは「楽しさをベースに活動の輪を広げることで社会課題の解決につなげて行く活動」のことです。
今回はそのソーシャルアクションの達人を招き、
ソーシャルアクションの観点からおもいやりライト運動について考えてみます。

ご参加になれない方も夕方は早めのヘッドライト点灯を!



2017.05.31

問題設定のホーリズム

(注:タイトルは下記の内容をうまく表していません)
以前の記事で提示した「卒論ルーブリック」では、
問題設定のよしあしについて次のような段階設定をした。

先行研究を十分調べられていないため問いが適切ではない
先行研究は十分調べられているものの問いが適切に設定できていない
先行研究が十分調べられており、問いの設定も適切である

このルーブリックでは、問題設定が適切にできているかどうかは
当該分野の知識が十分あるかどうかにかかっている、という前提に基づいている。
もちろん、十分な知識があっても問いが適切ではないケースもあるだろうし
逆に、まぐれ当たり的に、ほとんど知識がないにもかかわらず、
よい問題設定になっているケースもなくはないだろう。
これらのことは、最終的には個別の指導が必要となってくるというだけであって、
一つの基準に多くを求めすぎるのはよくない。

やはり、よい問い、というのは、いろいろなことを知ってはじめて生まれてくるのではないか、
というのは研究者にとっては非常に受け入れやすいことではないだろうか。
しかしながら、レポート課題の話となると、
この「問題設定」がその他の知識から独立した能力であると考えられがちである。
(戸田山先生の提案している「ビリヤード法」というのは、
問題設定を背景知識から独立に扱うための工夫としてわりと成功しているとは思う)

さて、先ほど提示したルーブリックがうまく機能すると仮定すると次のようなことが言える。
上記のルーブリックでは「問いの設定」が最終的には
評価したい項目(よって身につけてもらいたい項目)であるにもかかわらず、
それとは別の「先行研究を調べられているかどうか」という項目が目標として提示されている。
そのことは、指導においても、「先行研究を調べられているかどうか」ということが
重要な点であるとされることを意味する。
これは、学生が何をどう努力すればよいかを明確にするための工夫である。
「問いをもっとよくしなさい」という指導よりも
「先行研究ももっとたくさん調べなさい」という指導のほうが、
学生にとっては学びの指針となりやすいだろうということからである。

さて、こうしたことがうまくいくのであれば、
このこと(Aを身につけるためにBをする)は他の多くのことにも応用可能であろう。
たとえば、レポート課題で身につけるべきスキルとして「論証」というものがある。
この論証は非常に複雑で、学生には理解しにくいのではないか、
ということは『学生を思考にいざなうレポート課題』の中でも書いた。
とはいえ、論証できるようになることは教育目標としてやはり重要であろう。
そうであるなら、問題設定の場合と同様に、論証を身につけるために、
目先の目標として論証とは別の明確な目標を設定できないだろうか。
学生にとって努力すべき方向性が明確で、かつ、
その方向性に進んでいけば自ずと論証を行なっているようなものというのはないだろうか。

ここでもやはり課題の真正性というのは重要になってくると思う。
学生が目的を理解し、あるいは、目的にコミットしているような課題の場合は、
自ずと論証というのが構築されやすい環境になっているように思われる。
そうした課題設定を、通常の専門分野の授業の中で
どう構築するかについて今後も検討していこうと思う。

2017.05.30

つまずきから考える授業設計

この前の記事で、ルーブリックのよしあしの基準は
「つまずきをうまく記述できているか」どうかであると書いた。
この「つまずき」という観点はさらに多くのことを説明できるのではないかと考えている。
(以下の議論は初等では当然のことと考えられているかもしれないが)

近年、大学ではアクティブラーニングが取り入れられている。
ディスカッションやプレゼンテーションなどの「外化」された活動を求めることで、
知識の定着を求めたり、あるいはジェネリックスキルの育成を目指すものである。
こうしたアクティブラーニングは現在多くの授業で取り入れられるようになってきている。
しかし、グループディスカッションを取り入れても、表面的な議論で終わってしまい、
深い議論にまで至らない、というような問題も指摘されている。
そこで深い思考を求めるようなアクティブラーニングが重要である、
という議論が行なわれている。
学生の議論が浅いものなので深くなるように工夫しよう、
というのはもちろん変な話ではない。
しかし、少なくとも言えるのは「浅いか深いか」というのは、
学生にとっては学びの指針となり得るような基準ではない、ということである。
さらに問題なのは「浅くなり得る」という点である。

『学生を思考にいざなうレポート課題』でも書いたが、
レポート論題で「~について論ぜよ」という論題がまずいのは、
その論題においては失敗があり得ないからだ(本の中ではそのような表現はしていないが)。
つまり、つまずきようがないのである。
つまずいていないのであれば、それ以上の改善を求めることは難しいであろう。
つまずきに関しては、学生が自分自身で「あ、失敗した」とか
「うまくいかなかったな」というように、内在的につまずきについて理解する場合と、
「きみのここの部分はおかしいよ」と他者から指摘される外在的な理解の二つがありうる。
ピアレビューは後者を促すという意味で有効だろう。
もちろん、後者が必ずしも前者を生み出すわけではない。
最終的には学生が内在的につまずきを理解しなければ学びにはつながらない。

さて、アクティブラーニングの文脈で言うと、
「外化は設計されているがつまずきは設計されていない」という授業は
多いのではないだろうか。
たとえば、先ほどの論題同様「~について話し合ってください」というお題であれば、
つまずきようがないだろう。
学生の議論が浅くなるのは、何も学生の学習意欲の問題ではないのである。

その意味で言うといわゆる「真正の文脈」においては、
つまずきを組み込みやすいと言えるだろう。
真正の文脈では、パフォーマンスの宛先が設定されていることが多く、
その宛先の評価は、容易に内在化されやすいからである。
またそれゆえパフォーマンスのよしあしについて学生自身が評価しやすくなっている。

さて、ではグループワークではどのようなつまずきが考えられるか。
自分が経験した範囲ではあるが、グループで何かについて議論をして発表をする、
というような授業の場合、もっともよくあるのは「箇条書き」
あるいは「寄せ集め」のようなプレゼンである。
これは、それぞれのメンバーの意見を足し合わせただけであり、議論になっていない。
であるなら、「箇条書きになっている」というのは、
つまずきの一つとして提示すべきではないだろうか。
もちろんルーブリックで提示してもよい。
箇条書きが禁じられると、自然とそれぞれの意見を構造化する以外にない(はずである)。
この場合の構造化にはおそらく二種類あって、
「それぞれの項目の関係を示す」か、「何が最も重要かを示す」の二種類だと思う。
この二種類の構造化のパターンについては事前に説明する必要はない。
「箇条書きはダメ」という一手を封じさえすれば、自然と行き着くはずである。
もちろん、プレゼンが終わった後で、
そうした二種類の構造化があることを説明することには大きな意義があるだろう。

これまでの議論では、つまずきはお題とは別に提示できるものだ、という前提があった。
そうではなく、お題の中につまずきが含まれているようなものもある。
『学生を思考にいざなうレポート課題』の中で提示した「論述型」論題はまさにそれである。
論述型論題とは、具体的で単一のことを求めるような論題のことで、
「具体例を提示して説明せよ」などがそうである。
この論題の場合、「具体例を示せているかどうか」という点が
明確なつまずきの基準となっており、その基準は学生にも理解可能である。
デメリットは、それほど深い議論にならないという点である。
こうしたことから考えると、もちろん状況にもよるが、
論述型のようなお題の中につまずきの基準が含まれているようなものよりも、
お題はオープンなもので、つまずきの基準を示す方が、
グループワークに適している、と言えるかもしれない。
つまずきを示すことは重要であるが、やはりオープンな問題を設定することで
議論を生み出す余白を設定することが重要であると言えよう。

以上のことをまとめるとこうなる。
アクティブラーニング型授業(特にグループワーク)を設計する際にもっとも重要なのは
何がつまずきか(あるいは失敗か)を事前に設定することである。
本来であれば、「外化」をする「目的」が明確であれば、
その目的に照らしてつまずきははっきりとしてくるはずである。
しかし、授業という人工的な文脈ではどうしても目的も人工的になりがちであり
目的に照らしてつまずきを理解しにくい状況は考えられる。
そうであるなら、せめて何がつまずきになるのかだけでも
明確に提示する必要があるのではないだろうか。

2017.05.23

ルーブリックのよしあしの基準

以前の記事で、ルーブリックは作品ベースで作るか、
それとも、求めたい能力ベースで作るか、ということについて書いた。
どちらにしても、実際に使ってみて、
修正をしていくので最終的にはあまり変わらないと思うものの、
後者の作り方には以前から違和感を持っていた。

この点についても、この前の記事での「つまずき」という観点を入れることではっきりする。
つまり、作品ベースでルーブリックを作るということは、
まさにその「つまずき」を記述しやすくなるのだ。

ルーブリックはやはりパフォーマンス課題ベースでないと
いけないとは前から思っていて、
なんというか「課題オリエンティッド(?)」な性格を持っていて、
特定の課題(あるいはお題)に対してのみ意味を持つものだと思っていた。
この点も、「つまずき」から考えると明らかで、
同じパフォーマンス課題の種類(レポートやプレゼン等)であっても
お題によってつまずき方が異なる、ということなのだ。

「作品ベースでないと、つまずきがわからない」とまでは思わないが、
やはり実際の作品をもとに議論しないと
どうしても抽象的な議論になってしまうのではないかと思う。

と、ルーブリックについて色々書いてきたが、
初等ではすでに当然の話であるようには思う。

2017.05.22

ルーブリックの仮説性(その2)

前回の記事(「長期的ルーブリックとしての卒論ルーブリック」)のポイントは
長期的ルーブリックでは、能力を細分化して記述するのではなく、
学生の実際の学びの文脈を念頭に置きながら、
観点を設定するのがよいだろうということであった。
我々の通常の行為(パフォーマンス)は複数の能力から生み出されている。
それならば、わざわざその能力を細分化するのではなく、
実際の文脈で生み出されるパフォーマンスを評価し、
そのパフォーマンスがどのような能力から生み出されるのかを考えることで、
能力を間接的に評価できるのではないか、ということであった。

また、実際に提案した卒論ルーブリックでは、
学生のつまずきを念頭に置いているという点も重要であった。
学生がどのような点でつまずいており、
そのつまずきはどのような努力によって克服できるのか、
この点を示すことにこそルーブリックの意味があるのだろう。
さらに、そうしたルーブリックが教員による評価の場面でも
実質性を帯びてくることは言うまでもない。

こうしたことが正しいとするなら、
以前に書いた記事(「ルーブリックの仮説性について」)における
次の疑問にも答えられるだろう。

「ルーブリック自体のテストに用いることができるエビデンスは、ルーブリックで評価する場合には必ず生じているものなのだろうか」

たとえば、ルーブリックを用いて評価をした場合、
どのようなときにそのルーブリックはよいルーブリックで、
どのようなときにそのルーブリックはよくないルーブリックであると言えるのか。
「評価がしやすいかどうか」というのはもちろん重要なポイントであるが、
それでもなお、ポイントを欠いているように思える。

しかし、先の議論からすると、
ルーブリックのよしあしのテストの基準は端的に次のように言えるのではないだろうか。

「あるルーブリックがよいルーブリックであるのは、そのルーブリックが学生の典型的なつまずきを記述しており、かつ、そのつまずきを克服するための明確な次の一手が示されている場合である」

もちろんこの基準に沿っていれば、「評価しやすかった」ということにはなるだろう。
しかし、教員にとって評価しやすい基準が
学生の形成的な学びにとっても意味をなすかどうかは別問題である。
学生とともにルーブックをつくることが望ましいのは、
まさにそのギャップを埋めるためである。
しかし、学生とともにつくったとしても、
先の「つまずき」という観点が共有されていなければ
やはりそのルーブリックは有効なものとはならないだろう。

そうすると、この前の記事で回答を曖昧にしていた次の問題にもはっきりと答えることができる。

「ルーブリック自体のテストに用いることができるエビデンスは、ルーブリックで評価する場合には必ず生じているものなのだろうか。
生じているものの、利用している教員がテストしていないだけなのか、あるいは、ルーブリックの構造(観点の設定の仕方や記述の仕方)によって、生じる場合があったり、生じない場合があったりするのだろうか。」

この前は、後者であると考えていたが、今では前者であると考えている。
先の「つまずき」という観点を導入することで我々は常にルーブリック(それがどんな構造のものであれ)のよしあしについてテストできるのだ(それは今から考えれば当然のことであるが)。
自分がこの前、後者であると思っていたのは、まさによしあしのチェックポイントである、「つまずき」の観点が含まれているかどうかというよしあしの基準と混同していたためであると思われる。

2017.05.22

長期的ルーブリックとしての卒論ルーブリック

現在ではルーブリックは各授業でのパフォーマンス課題の評価だけでなく、
4年間の大学での学びを評価する基準としても用いられている。
それは「長期的ルーブリック」とも呼ばれるもので、
大学のディプロマポリシーで求められる能力にレベルをつけて表にしたものである。
たとえば

http://www.kuins.ac.jp/about/target/benchmark.html

のページ下の「2014年モデル 第1版」がそうである。

ディプロマポリシーは複数の能力から構成されていることが一般的で、
それぞれの能力ごとに成長度合いを評価するということはおかしなことではない。
また、一つの能力は、さらに別の能力から構成されていることも多いので、
さらに細かく分解することも可能である。
先ほど挙げた事例でも、大項目から中項目に要素分解されている。

こうしたルーブリックをみて気になるのは、実際にどのような場面で活用できるかである。
たとえば、教員が学生をこのルーブリックに基づいて評価できるだろうか。
また、学生がこのルーブリックを参考にして学びの指針にすることができるだろうか。
あるいは、カリキュラムを設計するときや、
カリキュラム上での各授業の役割分担を明確にするためになら活用できるだろうか。

やはり、こうした能力ベースのルーブリックは、正確さを求めるがあまり、
細分化していく傾向にあり、それにより、
実際の学生の置かれている文脈からかけ離れていってしまっているのではないだろうか。
実際の学生のパフォーマンスは特定の文脈における行為であるため、
複数の能力が合わさって発揮される。
逆に言うと、そうした複合的な能力が意味をなす文脈から離れて、
個別の能力だけを問うことは、学生の学びの指針の観点(形成的な観点)からも、
教員による評価の観点からもかけ離れてしまうのではないだろうか。

そこで、長期的ルーブリックであっても、現実的な文脈のもとで考えることが重要であろう。
つまり、Aができているなら、能力b、能力c、能力dを持っていると言える、
というようなパフォーマンスAがあるなら、
能力b、能力c、能力dの評価基準としてAについて考えればよいのである。
もちろん、能力b、能力c、能力dが発揮されるのはAの発露だけではない
ということは考えられるが、大学という文脈で考えた場合、
学生に求められるパフォーマンスの種類は限られているというのが自分の考えである。

その限られたパフォーマンスとして挙げられるのが卒業論文である。
卒業論文は、(必須ではないところがあるものの)大学での学びの集大成であると言えよう。
であるなら、その卒業論文のクオリティが高まるような
長期的ルーブリックが考えられないだろうか。
もし、そうしたものができれば、各授業でのレポート課題との接続も容易になり、
科目間の連携や役割分担も明確になるのではないだろうか。

たとえば、卒論ルーブリックとして次のようなものが考えられないだろうか。

卒論ルーブリック

それぞれの観点とレベルは、学生が行動指針として次の一手が見えやすいものとした。
また、現実的な文脈を前提とした上で、学生がつまずきやすいポイントにしたつもりである。

たったこれだけでも、長期的ルーブリックとして活用することで、
卒業論文のクオリティは高まり、結果としてディプロマポリシーで求められるような
様々な能力(いわゆるジェネリックスキルも含む)も高まるのではないか
と考えているのだがどうだろうか。

2017.04.30

ルーブリックにおける、「発見の文脈(学びの文脈)」と「正当化の文脈(説明の文脈)」

「発見の文脈」と「正当化の文脈」というのは科学哲学での話である。
これをそのまま「学びの文脈」と「説明の文脈」という、
教育の話に置き換えられると思っている。
詳しくは『学生を思考にいざなうレポート課題』のコラムで書いているのでみてほしい。
以下ではルーブリックとの関係で少し書いてみる。

ルーブリックはもともとは、教師が生徒のパフォーマンス課題に対して、
その質的な違いの根拠について説明したものである。
プロの視点でなぜその作品がそのレベルのものであるかについての記述を与えたものである。
これはまさしく、「正当化の文脈」あるいは「説明の文脈」であるといえる。

しかし、学生は実際にその正当化の文脈に沿って学ぶわけではない。

野球に関していうと、解説者が、プロ野球選手のプレーの良さについて解説をする。
「巧みなグローブさばき」であるとか「投手の癖を盗んで盗塁している」など、
その選手の良さの説明は様々な形で与えられる。

しかし野球を始めたばかりの少年に対して、そうした説明はどれほど役に立つだろうか。
初心者にとってはむしろ、「どのクラブに所属するか」や「一日何時間練習するか」とか、
あるいは「野手にするか投手を目指すか」といったことこそ重要な問題だろう。
熟達者と初心者とでは、重視されるべき点が異なっているというのは
非常に当たり前のことである。

しかしながらルーブリックに関してはその二つは混同されていないだろうか。

ルーブリックには少なくとも二つの側面がある。
先のような教師が質的な違いを説明する文脈と、
生徒が学びの指針とする「学びの文脈(あるいは発見の文脈)」とである。

学びの文脈にも様々なレベルがあるが、
基本的にはプロセスを明確化することが重要であると思う。
たとえば、レポートの場合「計画性」というのは重要で、
次のようなレベルが考えられるだろう。

計画性:「提出できなかった」「締め切りに遅れたが提出できた」
「締め切り当日に書き上げられた」「余裕をもって書き上げられた」

そして、「余裕を持って書き上げられた」の欄からはじめて「推敲」の欄が始まる。

推敲:「見直さなかった」「見直しはしたが修正はしなかった」「見直して修正できた」

こうしたプロセスはまさに学びの文脈であると言えるだろう。

もちろんプロセスがよくなれば、質が必ずよくなるわけではない。
しかし、強い相関関係があるのは間違いないだろう。
また、質に関するルーブリックも付け加えてもよい。
一つの観点で一気に物事の解決を目指す必要はない。

このように考えると「学生とともにルーブリックをつくったほうがよい」と
よく言われることの理由もはっきりするだろう。
正当化の文脈はしばし学びの文脈とかけ離れてしまいがちであるが、
学生とともにつくることで、二つの文脈を融合させる効果があるから、
というように説明すれば理解しやすいのではないだろうか。
あるいは、ともに作らないとしても、
教員がその二つの文脈の融合を意識してルーブリックを作るということも考えられるだろう。

ルーブリックには多様な側面(つまり目的や利用方法)があるため、
効果的に運用するためには、それらを切り分けながら考える必要があるのである。

2017.04.29

ルーブリックの仮説性について

ルーブリックはこれまでも作ってきたし、現在も作ろうとしているし、前から関心があったので色々と考えてきた。
今考えていることをちょっとまとめておこうと思う。

何年か前に松下先生の講演を聞きに行ったときに「メタルーブリックは改訂されることはあるのですか?」と講演後に質問にいった。
そのときの返答は「メタルーブリックが改訂されることはまずない」という返答だったと記憶している。
その返答自体は何もおかしなことはない。
しかし、そのときから少し違和感のようなものを感じていた。

ルーブリックに関しては、初等では以前から取り入れられていたようだが、大学でも現在は広く取り入れられるようになってきた。
とはいえ、活用している教員みんなが「うまくいっている」という状態ではないのは確かであろう。
ルーブリックには、個別のパフォーマンス課題を評価するレベルから、学生の長期の成長を評価するための長期的ルーブリックまで様々なレベルのものがある。
そうしたレベルについては脇において、現時点で取り入れられているルーブリックのほとんどについて、それらがよいルーブリックなのかよくないルーブリックなのか、はっきりしないと思われる。
つまり、現状の多くのルーブリックは「仮説的」なものであると言えるだろう。
(このことは仮説的ではない、絶対的にうまくいくルーブリックの存在を否定しない)

そうであるなら、そのルーブリックがよいルーブリックなのかよくないルーブリックなのか「テスト」されないといけないだろう。
科学理論の場合、単純化して説明すると、そのテストは、仮説から導き出される予測と世界が一致しているかどうかで仮説としての理論をテストする。
では、ルーブリックの場合はどうか。

ルーブリックを教員が総括的評価に用いる場合、矢印(?)は教員から学生の方に一方通行に伸びているだけのような気がする。
しかし、「学生の学び」や「評価」を通して、ルーブリックもテスト(評価)されないといけないだろう。
では、どのようなエビデンスによってルーブリックはテストされるべきだろうか。

ルーブリックをテストするエビデンスは、そのルーブリックを用いた評価活動を通してうまれるものによってテストされるのがコストがかからなくて便利だ。
別途学生や教員にルーブリックの使い勝手に関するアンケートをするとでルーブリックのよしあしについて評価することもできそうであるが、それはそもそも「テスト」ではないように思うので、テストであるからには、やはりその仮説から生み出されたもの(科学理論の場合であれば「予測」)によって評価されるべきなのであろう。

ここで一つの疑問がある。
ルーブリック自体のテストに用いることができるエビデンスは、ルーブリックで評価する場合には必ず生じているものなのだろうか。
生じているものの、利用している教員がテストしていないだけなのか、あるいは、ルーブリックの構造(観点の設定の仕方や記述の仕方)によって、生じる場合があったり、生じない場合があったりするのだろうか。

現時点ではなんとなく後者のような気がしているが、あまりはっきりとした根拠は提示できない。

今日はここまで。

2017.01.14

反課題解決至上主義―巻き込み型アプローチの可能性

シャルソンなどの楽しさによって広まっていく活動を「ソーシャルアクションアプローチ」としてこれまで研究してきましたが、このソーシャルアクションアプローチ(巻き込み型アプローチ)についてみなさんと一緒に考えたいと思います。

今回は、スペシャルゲストとして、シャルソン創始者であるパクチーハウス東京の佐谷恭さんにもお越しいただきます!

さんさんビジネスクリエイトvol.10「反課題解決至上主義―巻き込み型アプローチの可能性」
成瀬尚志(京都光華女子大学短期大学部)×中村征樹(大阪大学)×石川雅紀(神戸大学)
スペシャルゲスト:佐谷恭(パクチーハウス東京)

反課題解決至上主義

◆日時:2017年2月3日(金)18:30~21:30
◆場所:3×3Lab Future(大手門タワー・JXビル)
◆参加費:2000円(懇親会費実費)
◆タイムテーブル
18:30 イベント開始
20:30 イベント終了、懇親会開始
21:30 全体終了
◆募集人数:50名
◆参加申し込み方法:下記のFacebookページから参加申込みをしていただくか
https://www.facebook.com/events/302531500144253/
t-naruse【@】mail.koka.ac.jp
にお名前、ご所属、メアドをお伝えください。
◆主催:エコッツェリア協会
◆お問い合せ先:エコッツェリア協会03-6266-9400
◆概要
地域でも、企業でも、様々な場面で求められる「課題解決」。どのようにすれば「うまく」そして「効率的」に解決できるかが現在では問われ続けていますが、実はこの「課題解決」という発想自体がわれわれの思考と自由を制限しているのかもしれません。 今回は、近年広まりつつある「キャンドルナイト」や「シャルソン」などの「巻き込み型アプローチ」をとりあげ、「反課題解決至上主義」としてその可能性について考えます。

2016.11.12

ルーブリックの作り方の種類

11月5日に、第40回AJG研究会「アカデミック・ジャパニーズにおけるパフォーマンス評価としてのルーブリックを考える」でレポート関連の話題提供をしてきました。

その際に関西大学の黒上晴夫先生による
「パフォーマンス評価としてのルーブリック」
という講演が面白かったので少しまとめておきたいと思います。

現在のアクティブラーニングが出てきた背景から
ルーブリックの実践的な活用方法などとても勉強になりました。

その中で「ルーブリックの作り方」についての説明がありました。
スライドではルーブリックの作り方として次の3種類があるとのことでした。

・作品を集めて段階分け→共通点を基準に(西岡)
・評価ポイントを序列化→組み合わせて基準に(安藤)
・授業目標の達成度を段階化→規準と+α(黒上)

この点は以前から気になっていたことです。
ルーブリックの作り方の説明において、説明する人によって2パターンあると思っていました。
一つは上記の西岡先生(や田中耕治先生、石井英真先生)の作品群をベースにレベル設定をするというものです。
もう一方は、上記の安藤先生や黒上先生のように、作品群から独立に観点やレベル設定をするというものです。

なんとなく2パターンあると思っていたのですが
明確に説明を受けてすっきりしました。

個人的には作品群をベースにして作成するのがよいのではと思っています。
作品群から独立に設定された観点やレベルはあまりうまく機能しないのではないかというのが一つの理由です。
また、同じ事ですが、ルーブリックは、個別の作品がなぜそのレベルの評価を受けるのかを教師が説明するためのものであると思うからです。
このあたりは石井先生の御著書が参考になると思います。

黒上先生になぜ西岡先生バージョンを採用されないのかの理由を伺いました。
その理由は、「ルーブリックは授業での評価に使うものであり、事前に生徒に示すべきであるが、ルーブリック作成のために作品群を集める際にはルーブリックを事前に学生に提示できないから(大意)」ということのようでした。
これは確かにそうで、最初の作品群をどのようにして集めるかは問題となると思います。
しかし、長期的に見れば、その1回目の作品群の収集に問題があったとしても
2回目以降はその問題はクリアされるのではないかと思いました。
その点も休憩時間に黒上先生に質問してみたのですが、時間切れでその後意見交換ができませんでした。

上記のルーブリック作成法の2パターンは実質的には本質的な違いではないかもしれません。
というのも、作品群ベースではない作成法も、これまでの授業経験から、頭の中で作品群をイメージしながら観点やレベルを考案しているだろうからです。

いずれにせよ、ルーブリックは1度作成したら完成、というものではなく、常に改善が必要となってくるでしょう。
その際の基準は実際の作品群がベースになるのではないかと思います。

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